祖父・清志 (前列左から2番目)
祖父・フヂエ (前列左から3番目)
五六 (後列左から3番目)



星吉昭さんと高橋竹山さん
マネージャーの佐藤貞樹さん(右)

竹山さんと五六(中央)

◎若い頃の父・五六(右から2番目)と母(右)


プロフィール

藤根 清志(きよし)

明治27年生まれ
昭和10年 石屋を個人で創業
昭和62年 永眠

藤根 五六(ごろく)

昭和10年生まれ
昭和55年 藤根石材(株)創業
平成18年 永眠

石材業は浩貴さんで三代目ですよね?初代はどんな人でしたか?

浩貴
始まりは、祖父の清志が大正10年に個人で創業しました。当時は車も機械もありませんでしたから、職人である祖父は現場で直接加工や彫刻をしていたそうです。祖父はあまり口数の多い人ではなかったですね。祖母のフヂエがとてもしっかり者だったので、祖母と二人してしっかりと仕事をするという職人タイプの人だったようです。

大変な時代だったんですね。

浩貴
その後、父・五六が成人し、祖父に弟子入りして、始めは2人で仕事をしていました。そして、父は母と結婚して、それから設備を少しずつ整えていったんだそうです。
アサ
当時は自宅の中に工場があったので、大変でしたね(笑)。その後、近場に工場を建て、さらに平成元年、浩貴が修業から戻ってきた年、新しい工場を建てました。お客様のどのようなご依頼にも対応でるようにと、最新式の設備と広さを兼ね備えた工場です。

先代藤根五六社長はひとことで言うとどんな方でしたか?

浩貴
とにかく豪快な人でした。一度決めたら何がなんでもやり通す。ブルドーザーのような人でしたね。お金儲けにはあまり興味がなかった(笑)。人が好きで、仕事とは直接関係のない人たちともたくさん交流がありました。芸術・文化活動が大好きで、よく人から色々なことを頼まれることが多かった。そういう人のためにも骨身を惜しまずに協力していましたね。一言で言えば、「人が好き、芸術・文化が好き、そしてお酒が好き」な人だったと思います。
印象的だったのは、津軽三味線の巨匠・高橋竹山さんとシンセサイザー奏者の星吉昭さんとの対談をするために、地元東和町の田瀬湖畔に別荘を建てたんですよ。当時で700万円位かかりました。星さんはその後すぐ、その別荘をスタジオにして、NHKの「ぐるっと海道3万キロ」という番組の音楽を制作しました。東京の本社からNHK番組の担当者の方々が喜んで来ていましたね。
アサ
番組のためだけにですよ。どんでもないです。それも事後報告ですから(笑)。とにかく人にご馳走をふるまうのが大好きですから、わたしは接待が大変。大きな冷凍ストッカーを買って一年分のあゆや松茸を保存しておくんです。田瀬湖の田瀬大橋の下方に網をはって友達と一緒にあゆを捕獲するんです。それをみんなに振舞うわけです。毎日誰かが家にきて宴会でしたね。
浩貴
高橋竹山さんとはマネージャーの佐藤貞樹さんともども親友みたいな感じでしたね。お互いの家に行き来したり、竹山さんがわが家に泊まったこともありました。佐藤さんが亡くなられた時は、お墓を建てさせていただきました。本当に親しくさせていただきました。
アサ
竹山さんの思い出といえば「どんこ(※ エゾアイナメ 三陸の冬の味覚として代表的な魚)」ですね。海の友人が来て、竹山さんをもてなすために、どんこの腹に味噌とネギをあえたものを中に詰めて、串ざしにして焼いてくれたんです。竹山さんは目が見えないでしょう?焼きあがったお魚を手にとって顔を近づけて「こったなうめぇ魚、食ったことがない!」って言って串刺しのまんま食べたのを覚えてます。今となっては、楽しく懐かしい思い出ですね。
浩貴
故・草柳大蔵さんもいらしたね。
アサ
草柳さんも「こんな大きくて美味しいあゆを食べたのは初めてだ。」とおっしゃてましたね。
浩貴
当時は、NHKのディレクターさん、ポニーキャニオンの人たちや、オーディオ評論家の井上良治さん、元岩手県知事・中村正さん、女優の岸ユキさん等々いろんな人達に来ていただいて、楽しい時間を過ごしました。
アサ
とにかく人が大好きで家に呼んでご馳走していました。
浩貴
石屋の社長をやるよりも、そういう活動をやってるほうが好きだからイベント屋さんをやっているほうが向いていたのではないでしょうか(笑)。地域の人たちに日本のすばらしい文化や伝統を紹介することに生きがいを感じてましたから、何かあるたびに色んな人たちが集まってきて、それは賑やかで楽しい時代でしたね。寄付も沢山しました。経理担当のおふくろは大変だったと思います。

奥さんはどうでしたか?

アサ
もう生きてる心地がしないの(笑)。
浩貴
そうことができた時代で、それはそれでよかったんだと思います。今の時代でそんなことをやる人はもういないんじゃないですかね。
アサ
他人のために尽くすことばかりな人でした。
浩貴
借金してでも他人を助けたりする人でしたからね。裏切られても去られても何も言わない。「来る者は拒まず、去る者は追わず」でした。お金や物に対するこだわりとか執着心がないからできたんだと思います。
アサ
先代・五六の叔父である画家の藤原八弥にいつも言われてたんです。「他人を助けたとかおごり高ぶることはやめろよ」と。自分で好きでやったことに対して見返りを求めるなといわれてました。もとより五六はそういう人でしたが…。
浩貴
親父のことを称して「侍」だという人も多かったですね。
アサ
あんな人、めったにいないと思います。家族はたまったもんじゃないですけど(笑)。
浩貴
葬儀の時は800人以上の方に葬儀に来ていただきました。葬儀屋さんに「どこぞの市長さんでもこんなに人が来ないですよ」と言われました。
素朴な郷土料理やどぶろくも上手につくってもてなしたり、民芸や骨董にも詳しく、遊びの達人であり粋人でしたね。

五六さんが遺した素晴らしいものがあるそうですね?

浩貴
会社から少し離れた場所に「雲龍庵」を建てたんです。

「雲龍庵」とは?

浩貴
今から約240年前に建てられた古い民家をそのまま移築した建物です。この地方で代々庄屋さんのお家で、南部藩のお殿様が遊びに来たこともあったそうです。

それを譲り受けて移築したと。

浩貴
このまま取り壊してはもったいない。天下国家のため、これからの日本人のためにも、この家は残さなければということでした。

それは拝見できますか?

浩貴
あらかじめ私どもにご連絡いただければ、中もご覧いただけます。本当に素晴らしい建物ですよ。ここまで来るともう文化財ですね。

お父様は今後の経営方針について何か遺していかれたのでしょうか?

浩貴
一言で言えば、「義理人情を大事にして、人様の開運のお手伝いをしなさい」ということです。祖父の清志から始まり、五六、私で三代目ですが、これまで多くの方々から支えられて今にいたっています。皆様から受けたご恩を忘れず、「お客様の開運のお手伝い」のために、これからも家族社員一丸となって日々精進していきたいと思います。
それと、僕には男の子3人いるんです(笑)。誰に託すのかそれも楽しみです。

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