◎母・アサ(右)と

◎師匠(中段右)と自分(下段右)

◎師匠の墓前にて

◎狛犬の原型

今の石屋さんで、実際に石像彫刻をされている社長さんは、どのくらいいるんですか?

浩貴
日本全国の石材店でみても、そう何人もいないんではないですか。

えっ、そんなに少ないのですか?石屋さんは皆、石の彫刻ができると思ってましたが?

浩貴
技術レベルにもよりますが、今の石材店の社長さんで、実際に石像彫刻、というかノミを振れる方は、日本には数えるほどしかおられないというのが現状だと思います。テレビドラマの「寺内貫太郎一家」の世界は、残念ながらもはやドラマの中だけですね。

そんな中で浩貴さんは、まさに「日本一の名工の技」を受け継いでいるわけですね。そのいきさつは?

アサ
今は石像や彫刻は中国から全部輸入してる時代だけど、昔は手に職をつけた石屋が強かったの。だから先代(五六氏)は「浩貴は本当の石屋として彫刻ができなければ」といつも言ってまして、それが始まりです。

息子さん3人のうち早いうちから浩貴さんを後継者に決めていたのですか?

アサ
手先が器用な子じゃないと無理ですからね。浩貴は昔から工作が得意で何事も丁寧だったので小さいころから浩貴に毎日「石屋を継ぐんだよ」といってきかせました。
浩貴
作ることが好きでしたから自然とそういうものだと思ってましたね。小学校1年の作文で「将来の夢」に「いしや」って書いてました。それをみた先生が「浩貴くんは将来『医者(いしゃ)』になるのか、偉いね。」っておっしゃって(笑)。
まあそんな流れで高校卒業にするにあたり、先代が「行くところきめてきたぞ」と言うんで、岡崎に修業にいくことになりました。

愛知県岡崎市といえば「石の都」と呼ばれ加工技術日本一と呼ばれている場所ですよね。どこで修業なさったのでしょう?

浩貴
岡崎市の中でも石像彫刻日本一の呼び声が高い成瀬昭二師匠の会社に住み込みで5年間丁稚奉公をさせて頂きました。岡崎市の石屋組合には毎年40人ほどが弟子入りしてくるのですが、師匠の会社は毎年1〜2人しか弟子をとりません。僕は29番目の弟子にあたります。
アサ
「どんなことがあっても絶対戻って来るな。途中で辞めたら全国指名手配する。」って先代に言われてましたね(笑)。

どんな風に修業がはじまったのですか?

浩貴
同期はみな体格がよく、僕は55キロと細身だったから、早々に脱落すると思われていたようです。それに覚えが悪かった。一通り道具の使い方を学ぶために、最初は蛙を作るんです。僕が作ると最後に必ず蛙の足を折ってしまうんですね。失敗作を「パンコロ」と呼ぶんですがあんまり僕が失敗するもんで、ついたあだ名が「パンコロ」(笑)。
苦労したのが鎚を振り下ろして「のみ」に当てること。重い鎚を全身使って反動つけて振り下ろすんですが、これがすんごく重いです。結果、槌じゃなくて自分の手にのみを振り下ろしちゃう。しまいには手が血まみれになります。それが痛くて…軍手を何枚も重ねてひたすら耐えました。 段々コツをつかんで失敗しなくなってから、「パンコロ」は卒業。ようやく名前で呼んでもらえるようになりました。

修業にはカリキュラムみたいなものはあるのでしょうか?

浩貴
蛙が終わると、蓮華台、狛犬、地蔵、七福神、観音様と作るものが難しくなっていきます。手がけている作品でその人のランクがわかるんですよ。実力の世界ですから先輩後輩は関係なく「作品が全て」。後輩に抜かれることもある。みんな抜かれたくないから必死です。僕自身も後輩に抜かれることはありませんでした。

師匠はどのように指導してくださるのですか?

浩貴
道具の使い方は教えるけれども、後は見て覚えろ、と。要は、「技は見て盗め」ということなんです。ちゃんと遠くから見ていて、しっかりやってないと石のかけらが飛んできました。いわゆる「体で覚える」という方法です。昔堅氣の職人ですから、それは厳しかったですね。
石を掘る前にまずデッサンを描かされる。OKをもらえなければ彫ることができません。デッサンがOKとなった段階で確認されるのが「この石の中にデッサンした完成像が浮きあがって見えるか?」ということ。ただの石の塊の中からその中にいる観音さまや狛犬を導き出すのが私たちの役目だと思います。
当時お給料は9万円、そのうち寮費で3万円納めますから残りは6万円です。親からの仕送りは禁止されていました。お金の使い方を覚えるのも修業だと。僕は毎月3万円貯金していました。

師匠との思い出で印象に残った出来事を教えてください。

浩貴
厳しい師匠でしたから作品を誉めてくれることはめったにありませんでした。よっぽど良い出来だと「まあまあいいな。」とボソっと一言言ってくださる。次の段階の作品を作るように指示されることで評価されたんだ、と分かる。そんな関係でした。
師匠が亡くなる前、「狛犬の原型」を僕に下さったんです。結果的にこれが師匠の形見となりました。40人いる弟子の中で僕を選んで託された重みを両肩に感じます。

師匠の思いを託されて今後はどのような活動をしていきますか?

浩貴
今、「モノ作りの原点に還ろう」という運動が国をあげて行われています。近年軽んじられてきた「世界に誇れる日本の職人の技」をもっと大事にしていこうという流れですね。戦後、「効率」をひたすら追い求めてきた日本人が今、逆に「手作りの素晴らしさ」、「本物を求める心」に氣付いてきたんだと思います。今がまさに本物の「匠の技」が求められる時代ではないかと思います。
師匠が僕に託してくれた日本伝統の技と心をしっかりと受け止めて、次世代に継承していくこと、そしてその作品をより多くの方々に実際に見て、触れていただくことが、私の使命であり、会社の使命だと思っています。一言で言えば、坂村真民先生のお言葉である「念ずれば花開く」ですね。